T2-2 防御としてのあがない
”あがなうことは、解除することを意味します。恐れを解除する事が、奇跡の「あがない」としての価値の本質的な部分です”
間違った心、知覚で防御するとき、何が起こっているのでしょうか?
まず、スピリットであり、不変な、完璧な存在の自分たちが、傷つくことがあるという、分離、間違いが存在しています。
そして傷つくのは、相手がこういった事をするからだ!
傷つく、傷ついているのは、自分の間違った心が、誤った創造をしているのに、相手の攻撃という幻想、投影を行う事で、自分が間違っているということから、目をそらす、防御をしている(つもりになる)
この視点の防御と攻撃は一緒なんでしょうね。
自分が防御する事で、相手を攻撃する人として、知覚する。
相手を攻撃する人とすることで、自分が防御する必要があると思い込む。
正しい防御、あがないとしての防御とは、どういった事なのでしょう?
過ちの拒絶、真の拒絶
”どんなものであれ、何かを恐れる時、あなたはそれに、自分を傷つける力が有る事を認めています”
”あなたが恐れているとしたら、誤ったものを大切にしているのです。”
”あなたは、あらゆる思いに等しい力を与えるため、心の安らぎが破壊されてしまいます。”
今まで、自分で創り出した恐れや恐怖に対して、攻撃したり、防御したり、それはそれは、忙しい日々を送ってきたのだと思います。
自身が、相手が攻撃している、自分が傷つくと思い込んでいる限り、それは続きます。
結局、心の安らぎというのは、廻りや環境から与えられるものではなく、自分の心が決める事。
決めるというのも、語弊がありますね。
正しい心で在る限り、安らぎしか存在していないし、それが、真実。
自分が、誤った心、分離した心、自我の見せる世界を拒絶しない限り、それらが見せる、争いの世界が実際の出来事であると思い込む。
傷つくことを、ごまかす、隠す、隠ぺいするという事ではないのですね。
痛みに対して、強がることでも、平静さを取り繕う事でもないのですね。
そもそも傷ついていない。
傷つくと思いこもうとしている、自分の間違った心を拒絶する。
そういった、間違った心の知覚を拒絶すること、受け入れない事。
かわりに、正しい心、真実の世界。
決して傷つくことの無い、完璧に、満たされた、恐れを解除して、恐れが存在しないことを受け入れる。あがないを受け入れる。
それが、過ちの拒絶であり、真の拒絶なのだと感じます。
あがないという防御
守るとか、強くあるとか。
「時空間の信念体系」って言葉がでてきて、言い得て妙な感じがしますが。
色々な思い込みの体系、さも自然に、さも、あたりまえの様に捉えている信念体系が、私達にはあって。
これも、結局、間違った心が、それを維持する、創造、延長できると信じこむ、幻想の信念体系と、正しい心、聖霊と結びついた、信念体系があると、まあ、これも、間違った心が感じている。
正しい心から見ると、真実しか存在しない。
真実は、傷つくことはない、痛みは存在しない。
あがないは、それに続く、そこに導かれる、信念体系。
イジメという現象見たとき、何が起こっているのか?
間違った信念体系としては
「弱い」と思われる、存在を知覚する。
自分の「弱さ」を投影して、その弱さを攻撃(防御)する。
自分の「弱さ」を知覚して、弱い存在であることを受け入れつつ、相手の攻撃(防御)を受け入れる。
弱さという欠如、分離、間違いを受け入れている限り、その幻想は続いていく。
世の中で、起こっていると思われている、攻撃と防御は、全て、こんな信念体系に基づいているのではと感じています。
「勉強しない子供に対する親の態度」
「いう事を聞かない、生徒に対する、先生の態度」
「約束を守れない、部下に対する、上司の態度」
etc、etc 根底に、何か、恐れや、不安、間違った思いが有る場合、その目線で世界を見ている限り、訂正されない。
そんな信念体系。
”あがないは、両刃の剣でない、唯一の防御法になります”
間違った信念体系、間違った心でおこる世界の防御は、攻撃の裏返し。
弱さであれ痛みであれ、それが、存在すると、間違った知覚の上で行われる、防御は(攻撃は)結局、攻撃になる(防御になる)
それの繰り返し。
結局はあがないを受け入れる事、分離や、痛み、弱さ、不安、恐れといったモノは存在しない。
分離は無かったという事を受け入れる。
それ以外を拒絶することが、真の防御、あがないという、防御なのだと感じます。
過去からの解放
”攻撃できない防御法が、最高の防御法であるとは、信じがたい事です。これが、柔和な人々が地を受け継ぐであろうという言葉の意味です”
真の防御は、攻撃が存在しない、自分は傷つかない。分離は存在しなかった事を、受け入れる事なのだと感じます。
我慢とか、辛抱とか、義務とか、これ、漢字からも色々、感じれますが。
言葉のニュアンスや、使い方、状況にもよりますが、これらの言葉はある種、間違った防御の象徴的な言葉にもなり得るのかなと。
愛から感じたいですね。
我に満足する⇔我に慢心する
辛さを抱擁する⇔辛さを抱え込む
義に務める⇔犠牲に務める
こんな感覚ですかね?
私たちは、過去に、沢山の防御方法、攻撃方法を身に着けて、それによって、自分を保てている、自分が存在していると、勘違いしている部分が沢山あるのだと思います。
それらをすべて、贖う
分離は存在していないという視点、正しい心を選択していく。
”あがないは、全面的なコミットメントです”
分離を受け入れない、拒絶する。
そんな在り方の学びなのだと思います。