T3-1 犠牲なきあがない

“最善の防御は、常にそうですが、相手の立場を攻撃する事ではなく、真実を守ることにあります。”(T-3.Ⅰ.2:1)

真実を守ること。

シンプルですが、これなんだと思います。

本当これだけなのだなと。

様々な、思いが、私達の心に、浮かび上がってきますが、その中から、真実を選択する。

これは、救いと感じていますが

恐れ、不安、怖さ、罪悪感、etc、etc

そんな思いを感じる時、心は、間違った選択をしている。

攻撃は、真実の世界では、存在しない。なので、そんな思いを感じる時は、100% 恐れの世界、幻想の世界に、心が囚われている。

あがないが、唯一の意味のある防御、罪の無い、真実の世界を受け入れるのが、真の防御、真実を守る事につながる。

迫害と投影

”迫害は多くの場合は「神ご自身」が救いの為に「神ご自身の子」」を迫害したという、恐ろしくも誤った知覚を’正当化’しようという結果をもたらします。”(T-3.Ⅰ.2:4)

”この問題を克服することがこれまでとりわけ難しかったのは、この過ちそのものが他の過ちに比べて、修正が難しいわけではないにもかかわらず、防御法として、非常に価値が有るために多くの人々がこの過ちを手放したがらなかったからです。”(T-3.Ⅰ.2:6)

投影もそうですし、迫害もそうですが、自分たちは大丈夫、悪いのは相手だ、悪いのはあなたです。

自分が恐れている罪を、相手に投影してしまうことは、凄く簡単ですし、それは、エゴの常套手段でもありますね。

悪い=罪が存在する。

けれど、それは自分には無い。

罪が有る世界を見つめているのは、自分なのに、罪は外にある、自分の中には無いという事にして、一時的に、心を安定させる試み。

以前、ルワンダの虐殺の中を生きぬいた、イマキュレー イリバギザさんの本

生かされて

を読みましたが、その中で、描かれているのは、同じ国の中で、起こった、民族間に対立と、それに伴う、迫害、虐殺の物語。

これを、マクロ~ミクロの視点で見ると、あらゆるところで、迫害と言えることは起こっている(様に見える)。

国の対立、民族間の対立、地域、社会、会社、学校、家族…..

主義主張や、考え方、ポリシー、家庭環境、お金のあるなし、教養のあるなし…………

対立的な見方、良い悪い、善悪という基準が有る世界で物事を見ていると、きりが無い。

結局は、無罪性、罪が無いという真実を受け入れるまで、それは永遠に続いていく。

結局のところ、誰がそうしたか? という思いが湧いてきそうになりますが、それも投影でしかない。誰がそうしたかではなくて、結局、自分が、分離を選択した、分離している状態であるから、そういった世界を見ている。

神が、私達を追放した。

そうではなく。

両親が、兄弟が、先生が、友人が追放した。

そうでもなく、結局は、そういった事が、起こったと信じている自分たちの心、間違った心が、その世界を作ったと思い込んでいる。

幻想を現実と思い込んでいる。

その、幻想の世界をはねのける、真実の世界を守らないかぎり、その世界は、続いていくように見えてしまう。

言葉の歪曲と知覚

”「神」は懲罰を信じません。「神のマインド」がそのような方法で創造することはありません。「神」は、あなたの’邪悪’な行動を理由に、あなたを責める事はありません。”(T-3.Ⅰ.:1)

悪い事という、感覚。罰せられる、懲罰を受ける感覚。

何も知らない、子供の無罪性。

悪いという価値判断が、何時か、どこかのタイミングで、知覚され始める。無罪性からの分離を、知覚していく。

みんな、幻想を見ている、信じている。

罪や、罰が、存在している、創造されたと知覚してい居る、勘違いの世界。

一度、思い込むと、それはそうなのだと、信じ込んでしまう。

言葉の意味、相手の態度、起こった出来事。

それを見て、勝手に意味づけし、判断していく。

投影も含め、結局、自分が見える世界、信じる世界を、分かち合う事になる。

相手や、世界を見て、恐れや、罪を知覚すれば、自分もその世界に、巻き込まていることになる。

相手や、世界に対して、罪や罰、恐れを知覚しなければ、その世界が、拡がって行く。

自分の心が、世界を作っている。

犠牲と言う概念

”犠牲という概念は、「神」にとってまったく、未知の概念です。それは、恐れが唯一の原因で生じたものであり、恐れおののく人は、きわめて残忍になりえるものです。”(T-3.Ⅰ.4:1)

”良い教師は、生徒を恐怖に陥れる事は決してしません。恐怖に陥れる事は攻撃する事であり、その結果として、教師が教えようとすることは拒絶されます”(T-3.Ⅰ.4:5)

献身と、犠牲という、言葉の感覚。

これも、言葉の捉え方や、それを行っている心の状態によって受け止め方が違うのかもしれません。

言葉の概念の世界ですが、本来は、全ての行動が、何らかの、献身なのだ思います。

犠牲と言う言葉の感覚には、なんとなく、罪という言葉とのつながりが有るニュアンスが含まれる感覚がある。

誰かの、何かの、犠牲になっていると感じている時は、その裏側に、罪を知覚している、恐れを感じている。

社会の犠牲になっていると感じている時は、社会に、罪や罰、悪が存在することを恐れている。

犠牲は尊い。そんな風潮が、あったりなかったりしますが、真理の世界には、犠牲は存在しない。神にとっても未知の概念。

犠牲を見る、犠牲を感じる時は、そこに、罪と言う幻想を見ている。

それに気が付く、目覚めるチャンス。

何かの犠牲になる事を教えている時、相手を恐れさせている時は、そこに、何かの、幻想がある。

その幻想がなんなのか?何を恐れているのか?

正しい心と共に、しっかり、見つめてみたいですよね。

清らかなマインド、罪の無さ

”清らかなマインドは、真実を知っており、これが清らかなマインドの力になります。清らかなマインドは、破壊と罪のなさを混同する事はありません。それは、清らかなマインドは、罪の無さから、弱さではなく、強さを連想するからです。”(T-3.Ⅰ.5:5~6)

”罪のなさは、いかなるものも犠牲にすることはできません。なぜなら、罪の無いマインドには、全てのものが備わっており、自らのその完全性を守ろうと努力するだけだからです。”(T-3.Ⅰ.6:1)

”罪のなさは悪を知らないが故に叡智です。そして悪は存在しません。”(T-3.Ⅰ.7:4)

自暴自棄になるでなく、破壊的な、破滅的な行動になるでなく。

価値判断の世界を越えてしまうと、それすらも、愛の表れとして見れる。

自分の自我や、間違った心からの、判断の目線ではなく、完璧な、無罪性、罪の無い、清らかな心で、物事を感じていく。

罪の無さという、完全性。

”神の罪の無さこそ、神の子のマインドの真実の状態です。この状態においては、あなたのマインドは神を知っています。というのは、神は、象徴的なものではなく、「事実」そのものだからです。”(T-3.Ⅰ.8:1~2)

これが、光なのだと感じます。

本来の自分たちの姿。完全な無罪性そのものの、自分達。

神との一体感。

罪がない、完璧な自分達を受け入れられた状態、あがないの状態、それは、神の状態、神の子であること、神と一体であることを思い出した状態。

帰るべき家というか、もともと、ここに居るのだけれど、私達が、忘れてしまっていた、幻想の、夢の中に入って、盲目のまま、見えていなかった、見えなくなっていた世界。

罪が無い、ゆるされている、恐れは幻想である。

清らかな心で、観る、感じる世界。

そんな感覚が拡がる世界を感じ続けていたいですね。

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