T2-5 奇跡を行う人の機能
解放に対する恐れ
”奇跡を行う人が、この世界における自分の役割を引き受けるには、解放に対する恐れを十分に理解する事が不可欠です。さもなければ、自分でも気が付かないうちに、解放とは幽閉であるという既に広く浸透している信念を助長してしまうかもしれません。”
なんとなく、二つの物語を思い出しました。
刑務所に服役していた人が、外の世界で生活する恐れから、命を絶ってしまったり、再度、服役する出来事を選んでしまうという話。
映画、ショーシャンクの空にで、モーガンフリーマンも、そんな選択をしていた記憶があります。
もう一つは、プラトンの洞窟の比喩の話
詳細はこちらにありますが
要約すると、洞窟で拘束され、壁と、光の影として、壁に映る影を実体と信じて生活していた人たちが、光を見ると、光に対して苦痛を感じ、結局は、解放されて光を見る選択ではなく、慣れ親しんだ、影を見る生活を真実として選ぶというお話。
光は、時に、痛みをもたらす。
この痛みは、肉体的痛みと、認識されがちですが、痛みを含め、創造が可能なのは、前節最後にもありましたが、スピリットではなく、肉体でもなく、マインド、心のみ。
プラトンの話は、比喩ではありますが、私達の間違った心の創造を、うまく、言い表しているなと感じます。
光の世界、太陽の光に照らされる世界があったとしても、心が、洞窟内の、火から照らされる、影の世界を、知覚している限り。
心は、その世界が、真実として、知覚し、光の世界を、痛みや、苦痛の象徴にしてしまう。
こんな逆転現象を、あらゆる形で、間違った心は認識している可能性が有る。
”通常、自己中心性と恐れは一緒に起こるために、あなたは、癒しの真の「源」を受け入れる事ができないかもしれませんん。”
自己中心性。自身を創造したのは、自分だと思い込む心。
これもプラトンの比喩とリンクしていると感じます。(あくまで、比喩で、これも、あくまで、幻想の世界の物語ですが)
外の世界(真理の世界)に連れ出され、そとの世界の眩しい光を感じる。
徐々に目を慣らし、日の光のありがたみを知った人。(源を知った人)
洞窟内の火の光を見る事に、苦痛を感じて、自己中心的な、自分たちが創り出した、影の世界を真実として、受けとめる人達。
目の前の痛みを疑う。
痛み、恐れを幻想として、間違った心の、知覚、創造として受け止める。
そこから、正しい心、聖霊とともに、正しい心に、心を導く。
ただ、そうなのですね、ある状況、ある時点においては
光があまりにも眩しすぎて、恐れを感じすぎて、更に心を幽閉してしまう状況であれば、徐々に、目を慣らしていく事の方が、確かに、安全なのかもしれません。
正しいマインドへの回復
”奇跡の目的は奇跡を受ける人を正しいマインドへと回復させることです。しかし、奇跡を行う人は、たとえわずかな間であっても、正しいマインドの状態にいなければなりません。そうでなければ、他社の内部に正しいマインドの状態を再び確立することはできないからです”
知覚する世界は、贖いを受け入れる、奇跡の為の学びの場として。
全てを、間違った心の修正のツールとして認識した時。
実際の体験として、教師が、その喜びと共に、恐れを手放した、確信に満ちた思いで、表現されたとき、自分たちの正しい心が、共鳴する感覚。心に響くような、感覚を、何度も経験しています。
恐れや、確信を得ていない言葉からは、そういった感覚は、響いてこない。
ただ、そんな時は、きっと、間違った自分の心が反応している時でも有る。
与える事と、受け取る事は、等価であるから、受け取る側が、相手側の、正しい心を見失わない、その存在を、確信し続けている限り、何時でも、正しい心で繋がりあっていることを、確信できるのでしょうね。
奇跡を行う人の責任
”奇跡を行う人の唯一の責任は、自分自身のために「あがない」を受け入れる事です。”
”自分のマインドにいかなる破壊的な可能性も認めず、純粋に建設的な力を復権させることにより、あなたには、他の人々のレベルの混同を解消できる立場に、身を置くことになります。”
どうしても、プラトンの洞窟の例えが、頭から離れませんが^^;
太陽の光で照らされる世界を目撃し、それに感動し、それを真理として受け止めた人たちは、もはや、洞窟の世界が、真実であるとは、微塵も感じません。
そして、あがないを受け入れる事。
恐れは存在しない、恐れを解除した状態から、正しい心で、聖霊と共に、愛をもって、奇跡を行う。
そんなイメージを感じます。
スピリットの目覚め
”修正をもたらす学びは、常にスピリットの目覚めから始まります。そして、肉体的視力を信じる事をやめることから始まります。これは多くの場合、恐れを引き起こします。なぜなら霊的な視力が見せるものをあなたは恐れるからです。”
”霊的な自覚から生じるものは、全て修正へと方向づけられるだけです”
永遠なるもの、不変なモノ、完璧なモノ、神の延長、神の創造物であるスピリット
その確信なのでしょうね。
これも、間違った心の知覚で在る事は、自覚していますが。
そんな永遠のモノ、変わらないものを、私達は、外の世界にそれを求め続けて、そして、見つけたと思っては、裏切られたと思う。
外には、幻想の世界には、なかったんですね。
ただ、自分の心は、それとつながっていた。それと一つであった。
その目覚めから、延長する世界、創造される世界が拡がって行くのですね。
癒しと慈善
”癒しは分離の後に発達した能力であり、分離以前には必要ありませんでした。空間と時間に対する信念の全ての側面がそうであるように、癒しも一時的なモノです。”
”慈善とは、他者を見る時に、時間の中で実際に達成した段階をはるかに超えた存在として、その人を見る眼差しです”
奇跡のコース ワークブックのレッスン121にこうあります。
「ゆるしとは、習得されるものです。心に本来備わってい
癒しは、結果であり、奇跡が手段です。
慈善は、素晴らしい、癒しをもたらすと個人的に感じています。
私が、奇跡のコースの勉強会に参加して、初めてであった教師の方は、慈善の眼差しを持った方、間違った心の自分には、見向きもせず、ただただ、完璧な自分を見つめてくれる、温かいまなざし、許しの眼差し。
奇跡は経験なのだと、その会で体験しました。
他の人の完璧さを知覚する。何が有っても、完全性を見つめ続けてくれるそんな眼差し、そんな眼差しを、私達は、常に、受け取っているのですね。
奇跡を行う人の特別な原則
”奇跡がもつレベルの調整力は、癒しの為の正しい知覚を誘発します。これが生じるまでは、癒しを理解することはできません。結果として修正をもたらさなければ、許しは空疎なジェスチャーにすぎません。修正をもたらさなければ、ゆるしは癒しと言うよりは本質的な意味で、価値判断になってしまいます”
”奇跡を志向するマインドによる赦しは、修正以外の何物でもありません。そこには、価値判断の要素は全くありません”
聖霊に委ねるという事。正しい心から、スピリットにつながり、委ねるということ。
私達自身が、考えて行う世界ではなく、恐れを手放した、時空間を超越した全てが、完璧に調整されている、世界へ委ねていく感覚。
そんな感覚が、奇跡の感覚。
”
- 私は、真に人々の役に立つためにここに居ます。
- 私は、私をつかわされた「神」の代理としてここに居ます。
- 私は、何を語り、何を行うべきか心配する必要はありません。なぜなら、私を遣わされた神が、私を導いてくださるからです。
- 私は、「神」が望まれるところであればどこにいても満ち足りています。「神」が一緒にそこに行ってくださると知っているからです。
- 私は、「神」が癒しを教えてくださることに身を任せる中で癒されます。
“