T2-4 恐れからの解放としての癒し

”すべての癒しは、本質的には恐れからの解放です”

恐れは存在しない。間違った心の幻想。

意識的にしろ、無意識的にしろ、何かに恐れている。

何かに恐れて反応している。

よって、その瞬間瞬間が、奇跡を行う、あがないを受け入れるチャンスなのでしょう。

癒し

”癒しは奇跡ではありません。あがない、すなわち最後の奇跡は治療薬であり、癒しはどのような形であれ結果です。”

原因と結果の法則を考えると、原因と結果は同時におこる。

原因があるから、結果が現れる(時間の制約の中ではそのように見える。)

間違った心の訂正は奇跡であって、間違った心のままでは、結果は変わらない、癒しは訪れない。

”奇跡を行うためには、あなた自身が恐れていてはなりません”

恐れからの解放、間違った心の訂正、正しい心に聖霊とともに帰る。

癒しが先に起こる事はないのですね、間違いを認める、訂正を受け入れやすい心の状態はあるかもしれませんが、その状態は、癒されていない。

心の訂正、間違った心から、正しい心への訂正、それが行われた結果、恐れから解放された結果、癒しがもたらされる。

心の間違い

”マインドだけが、過ちをおかすことができます。肉体は、誤った思いに反応するときにのみ、誤った行動をとります”

熱が出てこまったな~とか、頭が痛いな~とか、足が痛いな~、腰が痛いな~、風邪を引いたかな~って思います。

心が感じている、心が創り出しているんですね。

寒いと風邪をひく、エアコンをかけぱなしにしていたから、冷えて風邪を引いた。

環境に反応して、風邪をひいたと思い込みがちですが、何のことはない、心が、風邪をひくこと、風邪をひくときに感じる思い、なんらかの理由で、風邪をひきたい、そう思って、身体を使って、そのような状況を作り出しているのですね。

魔術の信仰

”創造できるのは、マインドだけです。なぜなら、スピリットは既に創造されたものであり、肉体はマインドの学びのための手段だからです。”

心は原因であって、結果ではない。

これが原則であって、身体、肉体の変化や特徴が、もし、心に変化をもたらす事ができると信じていたら、それは誤り。原因と結果が逆転している。

肉体は何も創造できない。マインドのみ、心のみが創造できる。

この真実から、世界が見えると、結局、自分が見ているモノは、自分の心が創り出している、心しだいであることが、見えてくる。

薬が病を治めたり、痛みを緩和するのではなく。

心が全て決めている。

奇跡のねらい

”100%の効力を発揮するためには、奇跡は、奇跡を受ける人が怖さや恐れを理解できる言語で表現されなければならない”

”奇跡ねらいそのものは、コミュニケーションのレベルを高める事であって、恐れを増幅させてコミュニケーションのレベルを下げる事ではありません”

”病気の人を助けるにあたって最も役に立たないのは、恐れを増幅させることだからです。”

”時として病は、一時的であれ、その人が「あがない」に近づく事を許さないほど、強力にマインドを縛っていることがあります。そのような場合には、マインドと肉体に対して妥協的なアプローチを取って、外部からの何かによって、一時的な癒しの信念を与える事が賢明であるかもしれません”

恐れを強化する、幻想を強化する事はある種、あがないから、遠ざかる事なのかもしれません。

コミュニケーションのレベルを下げる、恐れを増幅させるということは結局

”奇跡を行うためには、あなた自身が恐れていてはなりません”

奇跡のを行う準備からも遠のいていく。

魔術や、物質的媒体が、良い悪いという話ではなく、奇跡を意図した時、肉体を学びのツールとして考える時、何が適切か感じる事。

このあたり、聖霊の導きに委ねる、間違った心、正しい心、両方の心領域を行き来できる、聖霊に委ねる。

私達が、行えることは、結局は、そういう事なのだと感じます。

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