T2-3 神の祭壇
自身が完全な状態。何一つ、完璧な状態である事を受け入れたとき、そこに何の問題が有るのでしょうか?
私達を神殿とした場合、肉体を建物、スピリット、真の神聖性、あがないは祭壇にあって、霊的な視力では、建物は見えず、祭壇は、完璧にはっきり見えます。
完璧な状態を受け入れたくないという思いは、祭壇が完璧であること、美しいまま保たれているという事を受け入れず、それをひた隠しにしている思いに似ているのかも知れません。
”分離以来、防御は殆んどの場合、「あがない」に対抗し、分離を維持するために用いられてきました”
その通りなのだと思います。
分離の後、私たちは、様々な、防御(攻撃)の手段が必要であると感じ、それこそが、安全への道、平和への道、やすらぎの、幸せの、愛への道だと、勘違いを重ねてきているのだと思います。
防御の為に、肉体を鍛えたり、着飾ってみたり、勉強をしたり、技術を磨いてみたり、そして周りと比べて、自分はまだまだと感じて見たり。
間違った心の世界、間違った知覚、それらを拒絶する、そこから見える恐れの世界を解除する、あがないの防御を受け入れるまでは、それは、永遠に続くのでしょう。
何故なら、根底に、私たちは完璧でない、欠如している、足りない存在だという、間違った心の思いが根差しており、それを訂正しない限り、間違った心でなく、正しい心を選択しない限り、間違った心は、間違った世界を目撃し続ける。
テキストの第1章7節、奇跡衝動の歪みにある、この文を思い出します
”肉体の最善の活用法は、肉眼には不可能な本当のヴィジョンを達成できるように、知覚の拡大に肉体を役立てる事です。これを学ぶことこそ、肉体の唯一にして、真の有用性です”
完璧な祭壇を受け入れる事なのだと思います。
同じ子供であっても、生まれた国、文化、地域によっては、勉強できることだけで幸せであるとみなされたり、勉強で良い成績を取ることが幸せとみなされたり。
本来は、自分の内側から拡がる思い、ただ、延長する、喜びや愛を、そのまま、あるがままに表現する、祭壇を信頼する、祭壇が完璧であることを受け入れる。ただそれだけの事。
それを拡げる事に肉体を用いるか防御や、攻撃の為に、肉体を用いる事を、信じつづけるか?
そんな事なのだろうと感じます。
世界の分離を癒す
”神の子は、この世界の分離を癒すための手段であると見なす事を学ばなければなりません。「あがない」は、彼らが究極的にはこれに成功する事を保証するものです”
みんな自然に気づいていくのだと思います。
「何かがおかしい」という事に。
幾ら建物を綺麗にしても、言われた通り、繰り返し繰り返し、建てなおしてみたり、新たな設備を導入しても、続く、不安や、恐れ。
”幽閉された意志は、極端な場合には、耐えられないような状況を生み出します。苦痛に対する忍耐力が相当なモノであるとしても、限界が無いわけではありません。”
分離や、恐れは、幻想なので、本来、それを維持する事は、不可能であり、とても難しい事なのだと思います。
それは、ある意味、完璧なモノを、完璧でないと、イミテーションし続ける事。
なんのためにそれをし続けるのか?それに何の意味があるのか?
結局は、自分の間違った心の思いこみ、分離が存在する、恐れが存在するという勘違いを信じている。
傷つくことの無い、永遠に完璧で、美しい、祭壇が、汚された、否定された、拒絶された、そうであってはいけない、そのままの状態であってはいけないという勘違い。
そして、それを否定している、そう認識しているのは、誰でもない、自分の間違った心、間違った知覚。
結局は、神の創造物であり、愛の延長である、スピリット、それを否定している、その事に対する罪悪感、間違った心が感じる、その罪悪感、神に反している、罰せられるという思い込み。罪深いと感じている自分達、そんな自分たちが、完璧であるはずがないという、無限ループに嵌っている。
私たちが癒すのは、この痛みであり、その痛みが存在しない、それは幻想であること、そういった分離は一度も起こっていなかった事、そういった正しい視点で世界をみて、その世界を延長していく。
自分達の本質は、祭壇にある事、永遠に完璧である祭壇であることを受け入れる事、神殿の建物でなく、完璧な祭壇に意識を向ける事、その繰り返しなのだと思います。