T-3-3 知識 対 知覚

”確信が無いということは、知らないということです。知識は確信であるが故に力であり、したがって、確信は強さです。”

”真の知覚は知識の土台となりますが、知るということは真実の確認であり、あらゆる知覚を超越しています”
(T-3.Ⅲ.1:4~6、10)

もともと、知っている。
神の創造物として、完璧な私たちは、全てを知っている。

知っているから、確信するのであり、知覚したから確信するのでは、ないのですね。

よって、本当の、相手や、自分。同じ、神の子で兄弟である私達を知覚した時、知識を思い出す感覚、知っていた事を思い出す感覚。

”知識は時間を超越しています。なぜなら、確実なものには疑問の余地がないからです。疑問を発する事をやめたとき、あなたは知るのです”
(T-3.Ⅲ.2:10)

知ったというのは、過去があって、知覚した結果、知るという結果を得ている。

そうでなくて、常に確信している、もとから知っている、知っている状態が本来の自分達。

知覚を、幻想を強化する道具にするのでなく、真実を、知識を目撃する、奇跡のツールとして活用する。

ただ、その為だけに、知覚を使っていく。

”あなたが誰かを愛するとき、あなたはその人をありのままに、知覚したのです”

愛する事を、確信しているとき、それは、本当の、自分と相手を知覚しているとき。誰かに、恐れや、不安を抱いているとき、それは、知覚の正しい使い方をしていない時。

全てに対して、愛を感じる時、それは、知覚を超越した時。

反対に、そうでないときは、知覚の訂正の機会を頂いている、奇跡の機会が目の前にある、ただ、それだけなんでしょうね。

知覚と奇跡と行動

”確信は行動を必要としません。あなたが知識に基づいて行動していると言うとき、実は、知識と知覚が混同しています。知識は創造的な思考のための力を提供しますが、正しい行動の為の力を提供することはありません”(T-3.Ⅲ.2:10)

誰かの為に、何かを行っている状態。

自分のやり方、良かれと思っている事を行っている、その良かれという思いを知識と混同している事は、良くあることだなと感じています。

その良かれを行おうと、ついつい、奇跡の瞬間を見逃してしまう。

間違った思考を訂正する場合、間違った知覚を訂正する場合

これも、知識ではないですが、その繰り返しの中で、間違いのない世界、罪の無い、世界に近づいていく。

創造的な思い、延長が有るだけで、行動は伴わない。

最後は、確信的な思いだけが存在している。

”他人の過ちを攻撃すれば、あなた自身を傷つける事になるでしょう”
(T-3.Ⅲ.7:1)

誤っている、自分の知覚を受け入れて、真実のお互いを目撃する、奇跡を経験する。

常に、その為に、知覚を使えるよう、心がけたいですね。

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