T1-5.完全性とスピリット
”奇跡と肉体はいずれも、最後には、それ自体が不要になる状態を促進するための学習補助教材であるという点で良く似ています”
私が、コースを学び始めたとき、一番、心に響いたのは
「私たちは、本当は、許しは、必要としていない。なぜなら、私たちは、完璧に罪の無い存在で、愛そのものであるから、ゆるされる必要がない。けれど、私たちは、分離していると、愛から離れてしまったと勘違いしてしまったから、許しを学ぶ必要がある」
勉強会のファシリテーターをされていた方の、そんな一言でした。
冒頭の言葉もそれを、良く表していて、贖罪をすべて受け入れた状態。完全に一体性、一つのものであることを思い出した時、奇跡は必要となくなるし、肉体も同じように、必要となくなる。
その意味においては、肉体、身体も永遠ではないので、幻想ですが、その目的は、贖罪、過ちの訂正、奇跡の為に使われる、使うのが、正しい使い方なのでしょう。
不変のもの、永遠のもの
永遠で無い、肉体の中に存在していると信じている間は、愛が欠如した世界に使えて、愛の無い世界を表現する、間違った心で、世界を見る事もできるし、聖霊に委ねて、変わらない、不変の、スピリット、愛の世界に使えてその世界を表現する事もできる。
私たちが、前者を選択するとき、ぐずぐずと行動を遅らせたり、言い訳をしたり、自分自身の感覚を麻痺させたり、それ自体が、良い悪いという話ではないですが、そういった選択をすることで、創造性、愛の象徴である、愛の延長である、創造性を無に近いところまで、持っていく事は出来ますが、愛である、創造性を無くしてしまう事は出来ない。
私たちの、スピリット、神の創造物である、不変のスピリットは決して、失われる事は無い。
なぜなら、それを創造したのは、私達ではないから。
時間からの解放と崩壊
恐れの世界、間違った心から見ると、時間の感覚が、重くなるというか、時間に縛られていくというか。
ぐずぐず先延ばしにする感覚。幻想や恐れに囚われて、それを信じて、なにか、行動が、遅れてしまったり、心を麻痺させている時は、その感覚が顕著な感じがします。
反対に、真理に目覚める、聖霊に使え、奇跡を志向している時は、時間から恐れの概念が抜けていき、そこに完璧性をみたり、瞬時に、奇跡によって訂正されていく世界、恐れからでない、正しい心からみえる世界に変わっていく。
それは、瞬間的におこるというか、それが、実在の世界。
自分は全て持っている、何一つかけていな、対等性の世界。
その世界に確信が出来たとき、時間から解放され、時間と言う概念も崩壊し、瞬時に、拡がる世界を感じられるのだと思います。
完全であることの認識、スピリットであること。
全ては、完全であり、何一つかけていないということ。
私たちの本質は、そういった存在、スピリットであることを思い出す事。
その為に、奇跡を経験しているのだと思います。
”自分は全て持っていると認識した時「神の子のすべて」に対する個々の貢献は必要でなくなります”
これは、直感的にですが、自分が、奇跡を行う準備が出来たときに、それは、自然と広がって行く、共有されていく感覚に近いと思うのですが、奇跡を必要としている段階では、それを、必要とするもの同士で、引き寄せあうという事、お互いで、奇跡を体験する合意が、聖霊を介して、もたらされる。
そして、自分が、完全な存在、何一つ欠けることなく、完璧な存在であることを認識した時、イエス・キリストの様に、完全な贖罪が完成した時に、存在そのものが、奇跡であり贖いである、全ての才能を有して、全てを分かち合える存在になる。
なるというよりは、そういった存在で「在る」という事が、私たちの本質であり、スピリットそのものなのだと思いますが、それを認識する事、その存在で在る事を思い出す事、スピリットに帰っていく事。
そこに帰っていく事が、分離をしてしまったと勘違いしている、私たちの、役割で、世の中で起こっていると思われること。肉体も、時間も含め、そのすべてが、それを体験するたっめのツールなのだと感じます。