T2-8 最後の審判の意味

私は、キリスト教教育を受けていないので、最後の審判と聞いても、あまり、ピンときません。

宗教的なものよりも、むしろ、趣味の、タロットカードの、太陽と、世界のカードにはさまれた、審判のカードの絵柄や、そのカードの意味を思い出します。

最後の審判

”魔術と奇跡の混同を修正する一つの方法は、あなたは、あなた自身を創造したのではないという事実を思い出す事です。自己中心的になってしまうと、このことを忘れがちであり、そうすると、魔術を信じる事が事実上避けられない立場に身を置くことになります。”

”あなたが一人で創り出すものは、全て「神のマインド」においては、実在するものではありませんが、あなた自身の目から見ると、実在していることになります。これらの基本的な違いが、そのまま、最後の審判の真の意味につながります。”

奇跡のコースの、本当、一貫性だと思います。

心の強さ。

間違った心が創り出す幻想の世界と、正しい心、神の心が創り出す、実在の、永遠の、愛の世界。

間違い、分離は、そもそも、存在していない。

そこからの視点で世界を見る事でのみ、真実の世界が延長していく。

この見方を軸に、最後の審判の意味を、感じてみましょう。

最後の審判

不思議な感覚ですね、学校や、アルバイトの面接や、試験。就職、転職の際の、最終面接。

なんとなく、ジャッジされる、評価される、判断される、見極められるって恐れが、先に出てきやすいですよね。

恐らく、「最後の」って言葉の醸し出す、意味とか、信念、観念が、影響しているのでしょうね。

”「最後の審判」は、あなたの考えでは、最も恐ろしい概念のひとつです。これは、あなたが、「最後の審判」を理解していないからです。価値判断は、「神」の属性にはありません。これは、分離が起きた後に、初めて導入されたものです。分離が起きたとき「あがない」の計画全体の中に、多くの学びの為の手段が取り入られましたが、価値判断もその一つです。”

価値判断は、神の属性にはありません。

これが、凄い、象徴的に私には、響いてきます。

これは、あくまで、私の感じてる、感覚ですが

価値と思い込んでるモノを、執拗に追いかけている時の苦しさ。

よろこびにフォーカスしてる時の、自分や、世界の拡がり。

油断していると、恐れがある時、間違った心の状態の時、なにかに価値を置いて、結果を追いかけていたなと。

学校の成績であったり、会社の成績であったり、友達が多い、少ない。お金がある、無い。

これら、全て、ある意味、単なる、結果や、何かを基準にした、数値的な、目安みたいなもの。ただそれだけ。

判断する、違いを認識するのは、分離した、間違った、私達の心だけ。

正しい心、キリストの心、ただ一つのモノという、視点に立った時、何一つ、分離していないし、全てが、等しく、完璧なモノ。

「周りと違うと思う心」なんとなく、恐ろしさが、ついて回る感覚。

一緒でないという事は、疎外される、分離される、感覚の恐れ。

ただ、これ、もう、サレンダー、お手上げですね。

なにかの価値判断が、実在すると思い込んでいる世界。

この世界で、価値判断の、幻想を越えて、一つになるのは、不可能。

男女の違い一つとっても、男が優れている、女が優れている。

この瞬間、分離が生まれている。ならばと男女平等と言う価値観が生まれたとしても、今度は、男女平等を訴える人と、そうでない人たちの分離が生まれ。平等だけど、未成年は、別だよなんて始まると、そこにまた、分離が生まれ、こんなシンプルな例からして、こんな感じなわけですから、それこそ、価値判断を認めると、無限に分離が続いていくと、感じられる。

じゃあ、どうすれば良いのか? あきらめましょう(笑)

サレンダーです。価値判断を、している限り、それを手放さない限り、恐れからは解放されない。あがないが完了しない。

ある意味本当、シンプルですね、その通り、神の属性には、価値判断はない。

唯一、そこにつながるのは、聖霊の判断ですね。

間違った心か、正しい心か。

この判断だけがある意味、必要な、判断なのですね。

最後の審判の意味

”あなたが、どんなに罰を受け入れるに値すると考えたとしても、「最後の審判」とは、罰を割り当てる事ではなく、最後の癒しです。罰と言う概念は、正しいマインドの状態と、完全に相反する概念であり、「最後の審判のねらいは、あなたに正しいマインドの状態を回復させることにあります。”

通知表が、帰ってくるのを待つ心境。

テストの結果が返ってくる瞬間。

合格発表。

好きな、あの子に、告白の返事を聞く。

昇進、査定、etc、etc

あらゆる瞬間にある意味、試されていますね。

間違った心と、正しい心、平安な心の選択を。

もし、恐れで、胸がいっぱいの時、それは、単に間違っているだけ。

何に恐れているのか、丁寧に、丁寧に、修正する機会。

その意味においては、正しく評価されるという意味においては、本来の、「最後の審判」であって、裁かれる、罰せられる、それを、現実として認識する事は、最後の審判の意味をなさない。

”「最後の審判」とは、誰もが、何が価値が有るもので、何が価値の無いモノかを、最終的に理解するようになるというだけの意味です。”

そして、そのことを、奇跡のコースは、繰り返し、繰り返し、学び、訓練し、修正していく、そのための、必須のコースなのだと思います。

生命への入り口

”誰もが、最終的には、自分の創造したものを良く見て、善いモノだけを持ち続けるという、選択をするでしょう。それは、「神」がご自身の創造物を見て、それが善いものと知られるのとまったく同じです。”

冒頭の写真。

大アルカナのカードの、20番目のカード「審判」

幻想の世界のお話ではありますが、タロットカードは、人の在り方を表しているカードだという、説がありまして。

19番目は、「太陽」地球上に生命を吹き込む、光のカード。

21番目、最後のカードが「世界」完成を象徴するカード。

でその間に、挟まれたのが、この「審判」最後の審判を象徴して書かれた、絵の、「審判」のカード。復活の象徴のカード。

ちなみに、カードで笛を吹いているのは、天使で、その笛は、人々の眠っている善なる心を、呼び覚ます笛だそうで。

コースの、この節を読んで、タロットと、人生の相関性を、改めて、思い出しました。

私の勝手な解釈では、世界、神の世界、全てが一つである、完成された世界に進むためには、やはり、あがないを完了させることになる。

善なる心、正しい心を、取り戻す、思い出す、復活することが、流れにくみこまれているのだと、感じました。

”「最後の審判」という言葉が恐ろしいのは、それが、「神」に投影されているだけでなく、最後という言葉が、死を連想させるからです。これは、本末を転倒した知覚の際立った例です。最後の審判の意味を、客観的に、検討すれば、それは実は、生命の入り口で在る事は、きわめて明らかです。”

”あなたは、自分が作りだしたものに対して、何時でも、有意義に、最後の審判を適用することが出来ます”

真実は、優しく、温かいですね。この、有意義にという言葉に、愛情を感じます。

有意義に適用する事。間違ったモノは消え、、善きもの、判断無く、全て完璧である、真の創造物だけが残り、幻想の、恐れや、罰、罪と言う意識は消えていく。

”時間の目的は、この審判が下せるように、時間をあなたに与える事それだけです”

第一章、6節の言葉

”あなたの不信を修正するために活用すること、それがこの世界の真の目的です”

分離を修正すること、間違った心から、正しい心を選ぶ、善なるものを選ぶ。

繰り返し、繰り返し

そういう事なのだと思います。

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